知合いのミュージシャンがFacebookに、音楽への熱意や技量と「金になる仕事」は連動しないと言う意味の投稿をしていた。
演奏活動を生業とするジャズミュージシャンにとって、今は厳しい時代で思わずそうこぼしたくなる。
彼は率直にそう書いたけど、同じように思っているミュージシャンは他にもたくさんいるはずだ。
僕だってそう思うことがある。
前回ブログに書いた1975年頃を振り返れば、ほとんど素人みたいな僕でもキャバレーのバンドではあったがプロとして稼ぐことが出来た。
ところが、今はそんなキャバレーのような職場はないし、ライブハウスもお客が少ない。
つまり、ジャズの生演奏を聞きたい人は確実に減ったのだ。
一方、逆に情熱も技量も備えた演奏をやりたい人は増えているはずだ。
需要と供給のバランスが逆転した訳だから、全てのミュージシャンにとって厳しい時代となった。
「金になる仕事」という言い方はちょっと良くないな。
僕は今のところ、なんとか生業として成り立っていると云うところだ。
1981年に上京して、芽が出ないままでもジャズをやろうとしていた時代が少しあって、でももう自分はこのままではやっていけないとどこかで判って来た頃、運良く紹介で欧陽菲菲のバックバンドに入れてもらった。
その後、更に運良く美空ひばりさんのバンドに入れてもらったあたりから、旅回りの仕事が猛烈に忙しくなっていった。
バブルがはじける少し前だったこともあって、1990年代の特に前半は仕事が多かった。
でもジャズを全くやらなくなってしまった。というのも、ジャズを演奏することに意識が行かなくなったからである。
冒頭のミュージシャンがこぼしている中には、音楽への情熱も技量もないのに金を稼いでる奴がいるんだ、という皮肉も含まれているかもしれない。
90年代の僕はまさにそんな有様だった。
でもその後、またジャズをもう一度やり直したいと思った経緯は以前もブログに書いた。
http://takashiono.blog.so-net.ne.jp/2011-08-23
ここに来て、90年代は音楽で稼ぐことに一直線に向いていたベクトルが、2001年以降は全く逆向きになってしまった。
要するにジャズへの情熱は増したけど、今度は旅回りの仕事への情熱が無くなってきたのだ。
でも、これはまずかった。
更に悪いことには、こういった旅の仕事が予想を遥かに超える速度で激減してきたのだ。
収入は半分近くまで落ち込み、逆に90年代前半にはなかった家族を抱えていた。
でも、そのお陰でやっとここで気付いたのである。
仕事は例えどんなに意に沿わない仕事であっても(もちろんそんな仕事ばかりではないが)、誠意を込めて精一杯やらせてもらってお返しするのだ。
そうすれば、もし意に沿わなかった仕事でもいつかはこちらに微笑んでくれるようになるんだと云うことにも。
言えば当たり前のことだが、不器用な僕にはそれが簡単ではなかったのである。
僕はこんな時にトミー・フラナガンのことを想像するようにしている。
彼は「名盤請負人」と呼ばれるくらいたくさんの名演奏、名盤の脇役を務めている。
僕とは土俵のレベルが違いすぎるけど、トミーさんだってそんなたくさんの仕事の中には意に沿わないものもあったはずだ。
でも聞くところによると、彼はそんな時でも手を抜いたりすることはなく相手に歩み寄った演奏をしようとしたらしい。
トミーさんの力量に加えて、そういう人だからいい演奏を残せたんだと思う。
どんな状況でも手を抜かないことが進歩への早道なんだと思う。
結果として僕自身は、ミュージシャンとして生計をたてることが出来る仕事を20年以上やってきたことで今もなおジャズを演奏出来るのであり、ジャズの演奏をやり続けることによってミュージシャンとしてのアイデンティティーを保つことが出来ているのかもしれない。
でも正直言うと、今の自分を中途半端だと感じている。
あれもこれもいいとこ取りは、簡単には出来ないんだと云うこと。
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好きなことで稼ぐということは・・・
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